「規範」という言葉は法学の分野でよく使われますが、国語学・日本語学の分野でも「規範性」という言葉が重要なキーワードになることがあります。その場合、多くは「規範性の問題」として語られることから、「規範性」は負の概念と言うことが出来ます。では、具体的にどのようなものが「規範性の問題」になるのでしょうか。有名な例として、現在の皇后様がご成婚される時、「美智子嬢は鼻濁音が出来ないから皇太子妃として適切でない」という反対意見が出されたということがあります。「鼻濁音」、これはカ行の文字に半濁点を付けて表わされ、例えば「学校が休み」という時、「学校」の「が」は濁音ですが、「学校が」の格助詞「が」は鼻濁音が正しい発音とされています。要するに、「が」には二種類の発音があって、それらは場合に応じて使い分けられねばならないというわけです。そして、美智子嬢はそれが出来ない人として認定されていたのです。しかし、実際のところ、当時の日本人で厳密に濁音と鼻濁音との峻別が出来ていた人がどれほどいたかということになると、ほとんどいなかったと言わざるを得ません。つまり、現実には為されていない言語活動を、ことばに関する「気むずかし屋」が、「かくあるべし」ということを全面に立てて、ある「規範」を押し付けるのが「規範性の問題」ということになります。
私は中世を主に研究対象としていますが、中世京都語の資料として最も広範に研究されているのがキリシタン資料です。これは、日本にキリスト教(カトリック)を布教すべくやって来たヨーロッパ人宣教師たちが、日本語の学習のために製作した多数の日本語文法書や辞書を指します。これらの資料では、最も正確で美しい日本語の修得が企図され、その結果、模範的な日本語を京都の公家の言葉に求めています。確かに公家の言葉には、純粋にして典雅な日本語が数多く保存されているのです。けれどもその一方で、巷の間では使われていないような言葉もあり、例えば「語末の促音」はその代表と言えましょう。日本語は開音節、すなわち語末の音は必ず母音で終わるのが特徴です。しかし、中国語の中古音には「入声音」というものがあって、これは語末が「p,t,k」で終わります。「罰」という漢語を我々は現在「バツ」と発音していますが、本来の中国語では語末は子音の「t」で終わらなければなりません。つまり、英語の「but」や「bat」のように発音しなければならないわけです。当時の代表的インテリである公家は、その中国語をなるべく忠実に再現しようと心がけました。しかし、一般の民衆はそんな面倒なことはしないで、語末を母音で発音していた、つまり「バツ」や「バチ」と発音していたのです。これはほんの一例ですが、こうしてキリシタン資料には民衆の言葉とは異なるものも含まれており、それを以て「規範性の問題」のある資料と見なされることがあるのです。
さて、いま、何故このようなことを言い出したのかと申しますと、このように国語学・日本語学で負の響きのある「規範性」を、近年、肯定的に捉え直す必要があるのではないかと感じてきたからなのです。若者の「ことばの乱れ」が指摘されて久しいですが、このように言葉が乱れるのは、あまりにも「規範」とすべきものが無さ過ぎるからではないでしょうか。現在の社会で「正しい言葉」の担い手といえば、アナウンサーが思い浮かびます。確かに、彼らがニュースを読むときには正しい日本語を使っているかも知れません。しかしそれはあくまでニュースの文体に限られるのであって、彼らの日頃使う言葉までが規範的であるとは決して言えないのです。尊敬語や謙譲語の欠落、「端」を「はじ」と濁ったり、短縮形「ちゃう」の連発などは、およそ模範的な日本語とは言えないものだと思います。結局のところ、アナウンサーにとっての最大の関心事は「東京アクセント」を崩さず話すことと言っても過言ではないでしょう。アクセントが言葉の重要な要素であることは否定しません。けれどもそれに執着するあまり、文法・語彙や取り分け敬語法などがおろそかになってしまっては本末転倒です。現代の社会で、室町時代の公家のような存在を見出すことはまず不可能ですが、アクセント以外の問題に関しても「気むずかし屋」であってくれるような人達が必要とされているのは間違いないと思います。現代の我々には、国語学・日本語学で言うところの「規範性の問題」とは異なった、新たな「規範性の問題」が突き付けられているような気がします。
2007/11/14 丸田 博之