「リーディングス現代社会」は、経済学部教員がそれぞれの専門分野に関連する現代社会のトピックを分かり易く解説していくシリーズです。経済・社会の動きを理解する道標として、また経済学部教員の研究を知る端緒としてお読み下さい。
2009年問題と雇用の流動化
槙 太一
2009年問題という言葉,最近になってニュースなどで取り上げられることも増えてきたので,耳にした人も多いでしょう.今回は,今まさに進行中の問題「2009年問題」を取り上げます.さらに2009年問題を足がかりに,経済成長にとって重要な日本の雇用のあり方についても考えてみたいと思います.
2009年問題厚生労働省が発表した資料などによれば,「2009年問題」へと至る経緯は次のようになります.
1999年に労働者派遣が他業種に拡大され,その後2004年に製造業への労働者派遣も認められるようになりました.偽装請負の問題もあり,2006年頃,企業は派遣労働を大量に利用するようになったのですが,その契約期間が切れる今年,大量の「派遣切り」「雇い止め」が発生するといわれています.これが2009年問題です.とりわけ派遣契約が多く結ばれたのは2006年秋頃だといわれています.世界的な金融危機の影響もあって,昨年後半から日本でも景気が大きく落ち込んでおり,年度末のこの3月に契約解除を前倒しする企業も多いようです.これにより8万人以上(別の推計によれば数十万人)の派遣労働者が職を失うといわれています.
派遣労働の意義 2008年末の時点で派遣労働者は380万人ほど存在します.この数字は派遣労働の規制緩和が進むとともに増加してきました(それ以前はITや通訳などの高度な専門職だけに派遣労働が許されていました).
労働者派遣と直接雇用の違いについては次の図が分かりやすいでしょう.図で,派遣元とは,パソナ,テンプスタッフなどの派遣会社のことです.派遣先とは,派遣労働を利用する企業です.

出所)厚生労働省ウェブサイト
派遣労働の規制緩和の裏には,政府の雇用政策の転換があります.以前は,たとえ不況であっても簡単には企業に解雇させない方針でしたが,規制緩和以降,「雇用の流動化」を目指して,企業による解雇を容認する方向に転換しました.
このような方針転換は,企業の意に沿ったものでした.1990年初頭のバブル崩壊とその後の長期経済低迷,またこのころ急速に進んだ経済のグローバル化の波が,日本企業の経営を圧迫していきます.国内需要が伸びない中で,中国などの外国企業との競争に勝ち抜くためには,思い切ったコスト削減が必要になります.リストラの嵐が吹き荒れたのもまさにこの時期でした.
企業にとって派遣労働を利用することの利点は次のふたつです.ひとつは,その時々に必要な知識や技能をもつ人材を弾力的に雇えること,もうひとつは雇用のための費用が低く抑えられることです.特に後者については,正規雇用の固定費化という問題を考えなければなりません.
日本の雇用システムの下では,企業は労働者を容易に解雇できません.一度雇ったら定年までというのが日本式の(特に大企業の)雇用です.終身雇用は,労働者に企業内の様々な部署で経験を積ませ,優秀な労働者に育てていく時間が十分にあるという意味では優れたシステムですが,雇用が固定化してしまうという特徴も併せもっています.つまり,雇用した時点で,定年までの給料を払い続けることが確定してしまうのです.コスト削減が至上命題であった企業にとって,より低コストで活用できる派遣労働の意義は大きかったといえます.
次に,雇われる側の派遣労働者にとってのメリットは何でしょうか.まず,一度登録すれば自分の希望する職場を派遣会社が探してくれるという利便性があります.また,派遣労働の場合,正規雇用の労働者のように残業や転勤がないので,自分のライフスタイルにあった就業形態が選べるということもあります.
こう記すと,良いところだらけということになりますが,景気後退が本格化した昨年後半頃から,派遣労働に対して厳しい目が向けられるようになりました.「年越し派遣村」の報道の様子が典型でしょう.
派遣労働反対の立場からは,例えば次のような意見が唱えられています.
企業の目的は利益の追求なので(利益を労働者や株主などに分配していくという社会的責任があります),この観点から雇用のあり方も考えることになります.つまり,必要なときに派遣労働者を利用し,不要になれば契約の延長はおこなわないというのは合理的な経営判断です.したがって,ひとつめの雇用の強制は,企業の合理的な判断を歪め,経営を圧迫するだけなので妥当な策とはいえません.ふたつめの提言については,いまのような不況の時期に派遣労働規制を強化するとかえって失業が増えるので,これも賢明な選択とはいえません.むしろ反対に,3年という派遣労働期間を一時的に延長するという対応が現実的でしょう.三つめの意見は少し検討する必要があります.
成長のための雇用政策 政府が労働者派遣の規制緩和を進めたのは「雇用の流動化」を狙ってのことだと上で述べました.雇用の流動化は,産業構造やビジネスの仕方が急速に変化するときにはとりわけ重要です.例えば,90年代以降の情報通信技術(IT)の発展によって,ビジネスの仕方が大きく様変わりしましたが,多くの日本企業はこの変化に対応し切れていないといいます.ITに見られるドラスティックなイノベーションは,企業のビジネス・スタイルを根本から変える可能性を含んでいますが,そのことはともかく,新しい状況に対応できる人材の確保が急務であることは間違いありません.このような人材の確保にとって「雇用の流動化」は不可欠です.
では,単純労働の流動化についてはどうでしょう.IT技術者のような専門職の流動化は元々の労働者派遣法でも認められていましたが,製造業の雇用流動化は2004年以降のことです.単純労働分野で派遣として働く労働者の専門的知識や技術には限りがあります.したがって,派遣切りにあえば,特に今のような不況下では,即失業という事態になりかねません.かといって派遣労働を禁止してしまうと,そもそも求人自体がなくなってしまいます.企業も不況下で正規雇用を増やせるほどの余裕をもっていないからです.解決策はあるのでしょうか.
最近,何人かの専門家が,北欧や西欧の一部の国の雇用システムに学べと唱えています.これらの国では,解雇に関する規制は緩い一方で,労働者が失業しても困らないような仕組みが整備されています.正規・非正規で待遇に差別なし,同一職種には会社が違っても同じ給料,手厚い職業訓練と保障などです.企業にとっては,柔軟に雇用の調節ができるので(簡単にクビにできるので雇うのも簡単),好不況の波に柔軟に対応できるというメリットがあり,労働者も再就職が容易かつ失業の際の手当も行き届いているので,失業による損害が小さくてすみます.こうした仕組みを取り入れている国の1人あたり所得は極めて高い水準にあります.
90年代以降,日本経済は長期の低迷から抜け出せないでいます.今後,日本がかつてのように成長していくには,労働者という最も貴重な生産資源を最大限有効に利用していく必要があるでしょう.過渡期にある「雇用の流動化」は,現在多くの問題をはらんでいますが,これを速やかに解決し,雇用構造の転換を図っていくことが,日本経済にとっても,また私たちの労働環境にとっても大切といえるでしょう.
(2009年3月)