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第1回京町家「新柳居」連続講演会・“京都で油を語る〜京の油売りと健康”を開催しました

更新日:2017年9月15日(金)
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京都学園大学 京町家「新柳居」では、9月第1週の火曜日から連続講演会“京都で油を語る〜京の油売りと健康〜”がスタート。今回、第1回「離宮八幡宮と油座」が開催されました。 動植物からつくられる油は、江戸時代まで主に灯り用に使われていました。明治時代から食用としての需要が増加し、今では現代人の食生活に欠かせないものとなっています。そんな私たちの身近にある油の歴史、最先端バイオを駆使した京都発の油生産技術、油脂と健康に関わる研究など、毎回さまざまな分野の講師をお招きし、全6回にわたって開催されます。

これから始まる連続講演会の理解を深めてもらおうと、まず本学の關谷次郎名誉教授から参加者の皆さんに、油脂の一般的構造、注目成分のα-リノレン酸(ω-3脂肪酸)、食用油の性質を決める脂肪酸組成、歴史における主な油の用途と種類などを基礎知識として説明。
進行役を務める本学バイオ環境学部バイオサイエンス学科の藤田裕之教授からは、参加者の皆さんへの挨拶に続いて、第1回の講師である離宮八幡宮の津田定明宮司が紹介されました。
「大山崎で離宮八幡宮の神主を務める私がなぜここに居るのかと言いますと、離宮八幡宮が油の神様だからです」と津田宮司が話されるように、じつは油祖として知られている大山崎の離宮八幡宮。その謂われから、お話は始まります。
貞観元年(859年)、国家鎮護のために創建されたと伝わる石清水八幡宮ですが、大山崎の地、嵯峨天皇の河陽離宮の故址に社殿が造営されたことから離宮八幡宮と呼ばれるようになりました。

離宮八幡宮所蔵『製油濫觴(せいゆらんしょう)』長木の図  
※平安時代に離宮八幡宮神官が神勅によりつくった油しぼりの道具
離宮八幡宮所蔵『製油濫觴(せいゆらんしょう)』長木の図
※平安時代に離宮八幡宮神官が神勅によりつくった油しぼりの道具

灯明は寺社にとって特別の意味のあるものであり、離宮八幡宮も周辺で採れるエゴマ油を使っていました。平安時代後期に離宮八幡宮神官が“長木”と呼ばれる搾油器を発明し、エゴマ油の製油を始めました。同時に神人(じにん)が広くエゴマ油を全国に売り歩いていました。13世紀前半には、すでに大山崎の油売りが日本中にその名を馳せていたことが離宮八幡宮文書の最も古い資料からも分かっているそうで、関津料(今でいう税金の類)の免除も認められていました。朝廷・幕府の庇護を受け、エゴマ油の専売権を得ていた大山崎。これが“油座”といわれるものです。
また、離宮八幡宮と淀川を挟んで対岸にある現在の石清水八幡宮には神様が分けておまつりされていて、この御遷座祭を始まりとする日使頭祭(ひのとさい)が春に執り行われていました(歴史研究者でも間違いやすいそうですが、現在は離宮八幡宮には石清水八幡宮の名は使われておらず、神様が移られた男山の石清水八幡宮と大山崎の離宮八幡宮は古文書でも使い分けて記述されていると説明)。この祭で頭の役割を果たしたのが大山崎の油神人でした。当時の日使頭祭は「北祭(葵祭)」に対して「南祭」とも呼ばれる大きなお祭りで、その莫大な費用を負担しなければならず、夜逃げする者もあったといいます。この特権を根拠に、室町幕府三代将軍足利義満が守護不入の地(外部の守護大名の干渉を禁ずる)として大山崎の自治を認めた文書も残されています。しかし、応仁の乱以降は徐々に油座としての勢いを失っていきました。
江戸時代になると、徳川幕府は離宮八幡宮の境内を拡張整備しました。以降も明治維新までの長きにわたって大山崎は油祖・離宮八幡宮の領域として栄えます。しかし、鳥羽伏見の戦いの数年前に起こった政治改革(禁門の変)で一部の門を残し全焼。後に再興されたものの、移りゆく時代の中で鉄道の敷設による社殿の縮小を繰り返し、何万分の一もの規模となったのが現在の神社の姿です。境内に線路も通る離宮八幡宮。ぜひ皆さんも訪れてみてください。 「“油断”という言葉があるように、それだけ油は昔から大切なものでした。神社に参られる際はぜひ“油断しない”“あきらめない”という気持ちを持ち帰ってください」と、津田宮司は今日の講演を締めくくりました。

歴史の語り部によるお話の後は、質問コーナーや実演の時間も設けられました。重ねた皿に油を注ぎ、い草の仲間の植物(別名:灯心草)の芯を挿して使ったという昔の灯りを紹介。エゴマの植物も用意され、参加者の皆さんは実際に手にとってその香りの良さを楽しみました。

次回、京都で油を語る〜京の油売りと健康〜[第2回 エゴマの科学]は、9月19日(火)18時30分より開催予定です。

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