京都学園大学

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人文学部 人間文化学会 講演会「変わりゆく歴史教科書――日本中世史研究の成果――」が開催されました。

更新日:2017年10月9日(月)
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2017年9月30日(土)、京都太秦キャンパスみらいホールで、京都学園大学人文学部人間文化学会主催(後援:京都市 京都新聞)の講演会「変わりゆく歴史教科書――日本中世史研究の成果――」が開催されました。講師は、平雅行・本学人文学部教授(大阪大学名誉教授)と、川合康・大阪大学大学院文学研究科教授。会場には一般市民の方々をはじめ、学内外の学生、研究者、また教育関係者ら約200名の聴衆が集まり、熱心に耳を傾けました。

日本中世史の研究は近年大きく進み、その成果として教科書の見直しが進められつつあります。去る3月には、法然と親鸞の扱いをめぐり、平教授が朝日新聞文化欄の記事にコメント。それがきっかけで、本講演会の全体テーマが決まりました。
人の生涯にわたる教養に、教科書の与える影響は多大です。高校時代の教科書にしたがって、鎌倉時代は法然や親鸞の「民衆仏教」の時代だと見る向きは少なくありませんが、これからの〈常識〉はどのように変わるのでしょうか。また、鎌倉幕府成立の年を「イイクニ作ろう、頼朝君」と暗記した記憶も、多くの人々が持つものですが、こちらは既に教科書が書き換えられつつあります。一体どのような研究成果に基づき、どのように〈常識〉は変わったのでしょうか。本学2回生の二人による参加記を御覧ください。

 

◎平雅行先生講演「鎌倉仏教と法然・親鸞」を聞いて   

人文学部歴史文化学科2回生 吉田茉友



 高校の日本史の教科書が、近年、中世史で大きく変わりつつあり、それに伴って、中世仏教史像も大きく変わったという。何が原因で、どう変わり、今後さらにどのように変わろうとしているのか。今回の平雅行先生の講演では、①古典的中世史像の破綻、②専修念仏の意義、③親鸞のエピソードといった三つの柱から、鎌倉仏教と法然・親鸞について考えるものであった。
 まず、中世は武士の時代であるという古典的中世史像の破綻について。中世でも、寺社や貴族、朝廷などは一定の力を持っていたが、彼らは古代的な勢力であり、やがて消えゆくと考えられていた。しかし、彼らはいつまで経っても消えない。中世が終わる時まで、一定の力を維持している。その原因を探ったところ、彼らが中世成立期に生まれ変わっていたことが分かった。10世紀に律令体制が崩壊し、そこから中世的な秩序が作り上げられてゆく。古代の仕組みが崩壊すれば、誰もが変化してゆかざるを得ない。それができなければ、中世という時代を生き残ることが出来なかった。
 同じように、旧仏教もまた、大きく変化したという。貴族化、民衆化を進めて地域社会に浸透していった。たとえば、院政時代の旧仏教では仏典研究が非常に盛んとなり、さらに仏教の教えの民衆化がはかられた。どんな悪人でも念仏で往生できるという悪人往生説は、旧仏教の世界で常識であった。そしてその教えは、流行歌に謡われるほど民衆にも広まっていた。仏教の民衆への開放は、鎌倉新仏教が行ったのではない。院政時代の旧仏教が達成していたのである。さらに旧仏教は、最先端の医学的知識など、技術発展を貪欲に取り入れようとした。旧仏教は腐敗・停滞していたのではなく、むしろ発展していた。
 では、何故、鎌倉時代に仏教革新運動が登場したのか。平先生は、その要因は仏教界の内部ではなく、外部にあったという。その外部要因とは、日本全国を巻き込んだ源平内乱である。仏教は祈りの力で平和を実現すると約束していたが、この深刻な戦争を前に、神仏への祈りは何の効果も発揮しなかった。この事実に、貴族も武士も僧侶も打ちのめされた。何が間違っていたのか。その反省から、穏健派と急進派という二つの考え方が登場した。穏健派は、仏教の教えは正しいが僧侶に問題があると考えた。一方、法然や親鸞らの急進派は、仏教の教えそのものに問題があると考えた。
 では、専修念仏とは何か。法然や親鸞と同じく旧仏教も、民衆に南無阿弥陀仏を唱えるよう勧めていた。ところが旧仏教では、念仏はレベルの低い人間のためのレベルの低い行とされていた。それに対し法然は、念仏を弥陀の教えの究極であると主張し、親鸞はそれを仏教の究極と考えた。阿弥陀仏を前にすれば、人間の能力差などちっぽけなものであり、無きに等しい。こうして法然らは人間の平等を唱え、念仏しか唱えることのできない人々に、まことの人間の姿を認めたのである。法然や親鸞の偉大さは、仏教の教えを民衆に初めて説き広めたところにあったのではなく、人間の平等を初めて打ち出したところにある、と平先生は語った。
 そして最後は、親鸞のエピソード(寛喜の内省)で締め括られ、親鸞の「柔らかなハート」について熱く語り終えられた。

 

 

◎川合康先生講演「鎌倉幕府の成立を問い直す」を聞いて  

人文学部歴史文化学科2回生 浦あゆみ



 鎌倉幕府の成立年は、源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年と言われていたが、近年は、頼朝が守護・地頭の任命権を獲得した文治勅許説(1185年)が注目されている。しかし、いずれも学問的に問題がある。幕府成立をめぐる学説は、これまで7説が提起されている。
 1つ目は1180年10月、東国軍事政権の確立を幕府の成立とする考え(石井進)。2つ目は1183年の寿永2年10月宣旨によって、朝廷が反乱軍であった頼朝軍を公認しその東国支配権を認めた時(佐藤進一)。3つ目は1184年10月、頼朝が公文所や問注所を設置した時。4つ目は1185年の文治勅許によって、守護・地頭の任命権が頼朝に認められた時。5つ目は1190年11月に頼朝が右近衛大将に任じられた時。6つ目は1190年、頼朝が日本国総追捕使・総地頭の地位を獲得した時(上横手雅敬)。7つ目は1192年7月の頼朝の征夷大将軍就任。以上、これまで7つの説がある。
 しかし4つ目の文治勅許説(1185年)については、これ以前から頼朝が守護・地頭を設置していたことが明らかになっており、学説として成り立たない。その他の6つの説は、鎌倉幕府をどう捉えるかによって成り立ちうる説である。
 川合先生は鎌倉幕府を、朝廷のもとで全国的に軍事警察活動を担った権力と捉えている。その観点からすれば、東国政権論の1、2説は除外されるし、3も除外される。次に、朝廷から与えられた権限や地位について検討すると、木曾義仲や源義経は、朝廷から権限を付与されたにもかかわらず、没落した。朝廷からの権限付与が重要なのではなく、それを活かす実力を備えていることが決定的に重要である。その観点から2、4、5、6、7の説が除外される。こうして川合先生は全ての説を否定した。そして、幕府の中心的な権力組織が守護・地頭制であったという考えから、改めて守護と地頭の成立過程を検討された。
 まず守護についていうと、当初は守護ではなく、惣追捕使の名が使われた。惣追捕使が初めて登場するのは、1184年1月末の生田の森・一の谷合戦である。摂津の惣追捕使(多田行綱)が摂津の御家人に戦への参加を催促している。そして合戦後の2月に、西国諸国に惣追捕使が一斉に設置された。ただしこれは基本的に西国の制度であって、東国には惣追捕使が置かれなかった。頼朝は反乱軍の頃から、多様な形で一国単位の軍事動員を進めてきたが、今回、それを惣追捕使という名称で西国に設置した。これは頼朝が独自に創設したもので、朝廷から許しを得たものではない。
 1185年3月に平家が壇ノ浦で滅亡すると、同年6月に惣追捕使が廃止された。しかし、1185年10月の源義経・行家の反乱を契機に、同年11月、文治勅許により「諸国守護地頭」が設置された。ここに見える「守護」は名詞ではなく、修飾語だ。これは「諸国守護の地頭」と読むのであり、「国地頭」を指している。国地頭は惣追捕使よりも権限が強かったが、1186年3月に国地頭が廃止され、平時の御家人統率者としての惣追捕使に切り替えられ、それが定着することになる。そして、13世紀初頭になって、守護という名称に変更された。
 一方、地頭(荘郷地頭)は、どのようにして発生したのか。これまた、朝廷の権限付与とは関わりがない。源頼朝はこれまでも東国で、御家人が敵方の所領を占領することを認め、それを新恩として給与していた。反乱軍であった頼朝は、朝廷とは関わりなく、自由に敵方所領を御家人に与えていた。1185年6月、頼朝は伊勢国で御家人に地頭職を授けた。これは西国で初めての没官領給与であり、これ以降、頼朝はこれを「地頭職」という名で統一し全国に拡大していった。しかし朝廷は、翌年6月の段階でも地頭職設置を許可していない。結局、朝廷は1186年10月にようやく没官領の地頭職を認めた。
 以上の話をふまえ先生は、①鎌倉幕府という権力は朝廷から権限を譲られて成立したものではなく、東国の反乱軍であった時の軍事体制に起源がある、②朝廷はやがて頼朝の権力を公認したため、幕府の軍事体制が西国にまで展開した、③内乱が終結すると御家人制が再確認され、戦時体制から平時への転換が図られた、と結論された。
 私は川合先生の講演を拝聴して、幕府の起源やその本質の捉え方によって、多様な説があると知ることができた。源義経や木曽義仲など朝廷から権限を付与された人物はいたものの、彼らは早くに力を失った。一方、頼朝は時代の変化に対応していく力が一歩抜きん出ていたと思う。今後も、鎌倉幕府の成立年については様々な議論がなされると思う。大変有意義なお話を聴くことが出来た。